
戦争花嫁(War Bride)と呼ばれた伯母
戦後80年をむかえる今年、2025年1月下旬。
私は「戦争の最後の生きた証言」を記録するべく伯母、桂子ハーンに会うためにオハイオ州ライマに向かった。
桂子ハーン。1930年12月2日横浜市中区福富町生まれ。
1951年二十歳の時に米兵と結婚し海を渡り、【戦争花嫁】(War Bride)と呼ばれた。
【写真をみる】取材中の奈緒さんと桂子さんの様子、桂子さんの夫・ハーンさん
彼女は女学生の時に横浜大空襲に罹災した。
伊勢佐木町の「野澤屋」というデパートで海軍の通信機器を作る作業に勤しんでいた時に轟くようなサイレンがなり、地下に避難。
しばらくして、表に出てみるとそこにはあったはずの街はなくなっていた。
桂子は当時の様子を、甥である私(TBSテレビドラマ制作部・川嶋龍太郎)にこう語っている。
「花園橋のあたりの川に死体が浮かんでいるのを見た。それはお母さんが背中に赤ちゃんを乗せた姿でした。お母さんの顔は見えなかった。首が無かったのかもしれません。それで良かった。もし顔を見たら一生忘れられなくなった」
日の暮れる前、空襲から守ってくれた野澤屋に戻った桂子は、その場にいた男の人から「あそこにあるタンスは開けてはいけないよ。君の学校の生徒の死体が入ってるからね」と言われ、その晩は生徒の死体が入っているタンスの側に置かれたデスクの上で寝たそうだ。
その夜は泣かなかった…というより、泣けなかったそうだ。
そんな桂子は終戦から5年後、米兵と結婚し海を渡った。
横浜大空襲に罹災し涙ながら「戦争は地獄です!どうして私が戦争を憎むのがわかりますか!私は平和を望みます!」と言った桂子が、なぜそのような行動をとったのか。
その事が、浅はかな私には理解が追いつかなかった。
「何故、戦争を憎んだあなたは敵国の軍人と結婚したのか?」
およそ3年前から、約30年ぶりに桂子に再会し、面会を繰り返しこう問い続けた結実は3月14日から始まるTBSドキュメンタリー映画祭で上演される「War Bride 91歳の戦争花嫁」で描かれている。
そして今回私のほかにもう一人、桂子のもとを訪ねた人物がいる。
女優の奈緒だ。
今年8月の舞台「WAR BRIDE」で主演・桂子を演じる奈緒が、桂子の物語をさらに深掘りすべく、改めて問うた。
取材は奈緒をインタビュアーとし、ディレクターで甥である私、川嶋がカメラを回した。
インタビューのその日、久しぶりに会った桂子はとても元気だった。
私には「まだまだ元気でいたいわ」と優しい言い方ではあったが力強く話した。
以下、奈緒が聞き取った、桂子のこれまでの歩みだ。
奈緒:「私の祖父は戦争に行って帰ってきた。祖父は1人で生きて帰ってきた事に罪悪感を抱えていて、話そうとしなかった。今、大人になってみると祖父は本当は話をしたかったんじゃないかって思ったんです」
桂子:「そうかもしれないね」
奈緒:「私は、あの時に聞けなかった後悔があった。だから30歳になるこのタイミングで、今回この話を頂いて桂子さんに話を聞けることをすごく光栄に思っています」
奈緒の祖父は佐世保の海軍で調理師をしていたという。そんな奈緒に桂子は優しく語り始めた。
桂子:「私は1951年に初めてオハイオ州ライマに来た。戦後たった五年だったので、この小さな街では偏見があった。どこかにいっても日本人だから元の敵と思われた」
奈緒:「そうなんですね」
桂子:「私の通っていた横浜雙葉はフランスのスクールで、外国人の先生がいた。アメリカの宣教師もいて、日本を愛していてくれていた。そしてその宣教師は日本人に帰化したんです。そういう人を知っているから、アメリカ人だからと憎めなかった」
戦後、キャンプ座間で働きフランクと出会う
桂子:「マッカーサーはご存じ?私は英語が出来てタイプが打てたので、マッカーサーの第八軍の人事課の首脳部で働く事になったのよ」
奈緒:「そのキャンプはどこにあったんですか?」
桂子:「キャンプ座間。そこで抜擢され、一番偉い将校のオフィスで働くことになった。将校の向かい側で仕事をしていたら、新しい兵隊が入ってきたの」
奈緒:「どんな人?」
桂子:「ひょろっとした人。ある時にピンポンをしていたんです。そしたら、『僕もピンポンにいれてくれるかい?』って。その人がすごく強くて、もうびっくりして名前を聞いたんです」
桂子:「『名前はハーン、フランク・ハーン』と言いました。彼が未来の夫になるとは思っていませんでした。それからハーン伍長と友達になり、街を案内してほしいと言われたけど、断りました」
桂子:「その頃は米兵と歩いているだけで【パンパン】や【売春婦】だと思われ、世間の目が厳しかった」
フランクのどこに惹かれたのか…桂子は、しっかりとした口調でその理由を話してくれた。
桂子:「普通に扱ってくれたのよ。とにかく女性に対してまだ色々な差別がある時代でしたから、私にとって「普通」が素敵なことだったの」
奈緒:「私は今回戦争花嫁という言葉を初めて知ったんです。私の世代だと知らない方も多いと思うんですけど当時戦争花嫁っていう言葉を最初に聞いた時どのように感じましたか?」
桂子:「それを初めて聞いたのが、日本にいたときじゃなくて、アメリカに来てから聞いたので…びっくりしましたけれど…それで何かがということはない。もう色々な障害を過ぎたあとだったのよ。それを乗り越えた後だったから」
世間と戦っていた桂子
1951年、アメリカに渡った桂子。ただアメリカでは常々、差別の目を向けられていたという。
フランクの両親は温かく迎えてくれたが、オハイオ州ライマは黒人は少なくアジア人はほとんどいない土地だった。ほどなくして長男エリックが生まれた。
髪が真っ黒な子だった。
フランクの親戚からは、
「フランクの血を継いでいないようだね」と言われたそうだ。
桂子:「世間の目はいつも厳しかった。日本でもアメリカでも差別と戦っていた」
奈緒:「世間と戦っていた、というのはどんな思いがあったか、何故そんなに強く戦えたんですか?」
桂子:「アメリカ人の子供の母親として、私はアメリカ人にならなくてはいけなかった」
通常ならば5年かかるアメリカ人になるための、市民権テストを2年で受ける事ができた。
ただ、「もし戦争が起きたらあなたは日本と戦いますか?」…そんな役人からの質問に桂子は思いもよらなかったと語る。しばらく考えてから、「戦います」と言ったそうだ。
ただ、桂子は涙がとまらなかった。涙が落ちて涙が落ちて、でも言わないといけないと思った。役人からは「何故そんなに泣くのか?」と質問されても…答えられなかったと振り返る。
桂子はその時、
「日本の魂を忘れない、日本の事を伝えようと誓った。両国の架け橋になりたい」
と決意したという。
「日本が誇りに思う女性。アメリカが私を誇りに思ってくれる女性になりたかったんです」
奈緒:「桂子さんが、日本とアメリカに良いところに向き合い続けてくれたから今の私たちがいるんですね」
桂子:「これが平和の元。戦争のない国が私の一番の望み。横浜は焼けただれて、東京でも亡くなった人がたくさんいた。撃たれて散ってしまった」
「神様が私を長生きさせて、ライマ(オハイオ州)と播磨町(兵庫)が姉妹都市をしていることは神様の思し召しではないでしょうか?」
桂子はボランティアとしてこの姉妹都市協会の日本委員長を地元のアメリカ人と共同で行っている。
姉妹都市事業の一環として日本とアメリカを行き来する若き留学生をサポートしたい、という思いからだ。
桂子:「ファミリーから歓迎を受けて、家族のように接する。そんな相手の住む国と戦争が起こるはずがないのよ」
夫のお墓の前で
自宅でのインタビューを終え、桂子は私たちを夫・フランクの墓地に案内してくれた。
桂子:
「バラの花を持ってきたわよ。2月はバレンタインだからね。
私からのバレンタイン。
フランクとエリック(早く亡くなった息子)一緒だからね。
フランク、奈緒さんは私の役を舞台でやって下さるの!
夢みたいでしょう、信じられる?
そのうち私も天国に会いに行く。
だから待っててね、フランクとエリック。
みんなが天国にいるので、死ぬのを恐れません I love you
私はアメリカと日本に愛されて幸せです」
女性として尊敬されることのない生活の中で、フランクの対応は新鮮だったのだろう。日本の男性のようにキャンプで働くことへの嫉妬をぶつけるようなこともなく、何よりも一人の人間として扱ってくれたことに。
沈みゆく夕陽を2人で眺めながら、奈緒はこんな質問を投げかけた。
奈緒:「桂子さん、幸せですか?」
桂子:「私は幸せです、ありがたいと思っています」
自分を愛してくれた夫だけでなく、戦後まもなく、敵国の兵士であった男性と結婚したことに反対もせず喜んでくれた両親への感謝の思いを口にした桂子。
あの戦争の終結から80年。
今年12月には95歳になる彼女は、アメリカの地で、静かに、しかし力強い意思をもって、平和の尊さを私たちに伝えてくれた。
(TBSテレビドラマ制作部・川嶋龍太郎)
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