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“霊長類ヒト科最強”マーク・ケアーの強さの真実 懇意だったライターに語った『スマッシング・マシーン』とPRIDEの時代

国内
2026-05-18 18:00
“霊長類ヒト科最強”マーク・ケアーの強さの真実 懇意だったライターに語った『スマッシング・マシーン』とPRIDEの時代
映画『スマッシング・マシーン』で描かれた若き日のマーク・ケアー(左)とドーン。インタビューを担当した高島学氏が1997年に撮影した貴重な一枚
 俳優ドウェイン・ジョンソンが主演を務める映画『スマッシング・マシーン』が日本で公開された。1997年から2000年にかけて日本でも一大ブームを巻き起こした総合格闘技イベント『PRIDE』創成期に活躍した伝説の格闘家、マーク・ケアーの実話を描く作品。恵まれた体格と圧倒的な強さから“霊長類ヒト科最強”と称され、輝かしい戦績を誇ったケアーが、キャリアの絶頂で初めて味わった敗北をきっかけに、人生の影と向き合っていく姿が描かれる。

【インタビュー動画】“霊長類ヒト科最強”マーク・ケアーの強さの真実 懇意だったライターに語ったPRIDEの時代

 公開に合わせて、オリコンニュースはアメリカに住むケアーのリモートインタビューを実施した。聞き手は、長年の活動で日米の格闘技シーンに深い知識を持ち、ケアーの自宅に宿泊したことがあるほどかつて懇意だったMMAライターの高島学氏。ケアーの自宅でかつて高島氏が撮影したドーン(映画にも登場するガールフレンド)との2ショットに、ケアーが「覚えているよ、すごいことだね…」と声を震わせる、感動的なムードからインタビューは始まった。

■マーク・ケアーが明かすPRIDE秘話 「あの頃は誰もプロフェッショナルMMAを分かっていなかった」

――私がアリゾナ州フェニックスを訪れ、マークの取材をしたのはもう25年以上も昔の話です。あの時、マークとドーンの住む家に2日間お世話になりました。

【ケアー】本当に昔の話だね。(高島氏が撮影した写真を見て)オーマイガー……、覚えているよ。すごいことだね。もう20年、25年も経ってしまったんだ。君たちと過ごした時が、どれだけ大切だったかを忘れて生きてきたんだ。僕にも大切だったし、君にも大切な時間だったはずだ。僕の世界の一部を、素晴らしい人生を送る人たち、それぞれと共有していた。

――これは映画のネタバレになってしまうかもしれないですが、エンドロールクレジットで、今現在のマーク・ケアーの姿が映し出された時に涙を堪えることができなかったです。あの1997年からの日々が思い出されて(笑)。

【ケアー】1997年、そうだ。そうだね。あの時から、今に至る心を癒す日々の流れというのは、僕の人生を考察するうえで多くのことを気付かせてくれた。以前は分かっていなかったことをね。僕は周囲の人間、特に別れた妻(ドーン)、トレーニングパートナーたちに大変な想いをさせてしまっていた。当時は今と違って誰もプロフェッショナルMMAなんて分かっていなくて、何とかしようとあがいていたんだ。

――マークがPRIDEで戦っていた時、心が痛かったです。マーク・ケアーという人間を他の人より知っているつもりだったので。マークは当時のMMAショーを戦うには“良い人過ぎる”と感じていました。肉体ではなく、精神的に厳しいだろうなと。

【ケアー】僕は業界のことが分かっていなくて、すごくナイーブだった。僕とPRIDEを結び付けた人(仮称:Aさん)たちと食事をした時に……。あの時、僕は彼らとの契約、そしてドリーム・ステージ・エンターテイメントとの契約と複数の契約があったんだ。ウゴ・デュアルチと戦った時(1998年10月『PRIDE.4』)だった。僕には対戦相手の3つのリストがあって、それぞれのリストの選手と戦う時のボーナスが決まっていた。それを見せたけど、Aさんはサインをしなかった。そしてウゴ・デュアルチ戦のあと、ファイトマネーをもらう時にテーブル越しに、僕は『コレは間違っている』と伝えたんだ。Aさんとは違う人間がその場を任されていたんだけど、契約書を突き返しファイトマネーを受け取らずにホテルの部屋に戻った。10分もしないうちに、部屋に電話が掛かってきて「ペイルームに戻ってこい」と言われた。その時はAさんもいて、彼は通訳を通して「念を押させてもらうが、この金を受け取らなかったら、君は2度と日本で試合ができないようになる」と言われたよ……。

――PRIDEで初めて戦った頃は、そういう空気ではなかったです。雑誌の取材も兼ねて、マークと私が浅草で「どじょう鍋」を食べた時など、希望に胸を膨らませていたのに。どじょう鍋には顔をしかめていましたが(笑)。

【ケアー】アハハハハハ。アレは最悪だったよ(笑)。地べた(座敷)に座って食べた、あの骨がついたままの魚の味は、僕の人生でトラウマになったよ(笑)。これは最高だと言えれば良かったけど、あんな料理は食べたことがなかった。あぁ、もう絶対に無理だった(笑)。

■紆余曲折あった映画化への道のり「一旦動き始めてからのスピード感は信じられなかった」

――ハハハハ。ところで自らの半生をノンフィクション・ムービーとして創りたいという話を聞いた時に、どのように思いましたか。

【ケアー】そうだね。最初に制作スタッフと話をしたのは2019年だった。そこから全てが始まったんだ。2019年7月にドウェイン(ジョンソン)のエージェント、ウィリアム・モリスから連絡がきた。「権利はどうなっている?(※2002年のドキュメンタリー本『The Smashing Machine』が作成されたことで、著作権のことと思われる)」、「脚本は気に入ったか?」ってね。でも、僕はその辺りのことは把握していなかった。実際、2006年に全てを売却しているから。本来、どこに権利があるかを確認し、全ての契約書を見直すには何ヶ月もかかると思っていたけど、1ヶ月もしないうちにウィリアム・モリスから「ヘイ、俺たちが権利を取得した。ドウェイン・ジョンソンのプロダクション・カンパニー、セブンバックスが買い取った。俺たちが映画を制作するから、ドウェインが連絡するよ」って連絡が来た。そんな感じだったよ。そこからコロナ・パンデミックが始まり、僕はドウェインの携帯番号を知っていたけど、4年間一度として電話はせず、テキストを1度送っただけだった。パンデミックとともに、ハリウッドで脚本家のストライキも起こっていたからね。「実現しないなら、それでしょうがない。制作するなら、制作しよう」と。だって映画が創られようが、そうでなかろうが、僕の人生は続くわけだから。

 またドウェインとやり取りするようになって、現実的に動き始めたのは2023年の10月だったよ。それ以前にどういうことがあったのか分からないけど、「これから、かっ飛ばす」的なことを言っていた。どういう人がこの映画の制作に関わっているのか。どこで撮影をするのか。誰が監督をするのか。この企画のために、どれだけの人が集まって進んでいくのかを話してくれた。このプロジェクトの全容が分かっても……、いや理解できたからこそナイーブになった(笑)。ドウェイン・ジョンソンが……、この計画が進行するということは、どれだけ大勢の人がその前進を支えていることか。そんな連絡のあと、2024年4月に本格的に物事が進み始めたんだ。一旦動き始めてからのスピード感は信じられなかった。

――映画を実際に観て、どのシーンが一番のお気に入りでしたか。

【ケアー】オー、ボーイ(なんてこったぁ)。いくつかあるね。ドウェインが病院の待合室で子供と会話をしたところ、アレは本当にあった事実そのままだった。お母さんと実際にあんなふうに会話をしたんだ。僕の顔もあんな風にぐちゃぐちゃで(笑)。あの場にいた彼女が、どんな気持ちでいたか分かったから、なんでこんな顔になっているのか説明しないといけないと思って(笑)。息が詰まりそうだったからね。あのシーンを見て、なぜベニー(・サフディ。同映画の監督、脚本、製作、編集)が、この企画に僕を必要としたのか理解できた。あの混乱した日々、カオスの中に僕がいたからこそ、ベニーは僕が必要だった。

――映画の企画が決まってから、ドーンとは話をしたことはあったのでしょうか。

【ケアー】アハハハハ。いろいろな過程があってね(笑)。最初、ドーンは映画に関与したがっていなかった。オリジナル・ドキュメンタリーのようなモノだと彼女は思っていたんだ。あの時、彼女は自分の存在を無視されたように感じていたんだよ。僕はエミリー(・ブラント。ドーンを演じた女優)と長時間、話した。エミリーは「ドーンと話す時間が取れるまで、この話は進めない」という毅然とした態度だった。そうでないと、この物語を世に出すことはあり得ないという考えだったんだ。エミリーはドーンに「私はあなたのチャンピオンになる。あなたの言葉になる」と伝え、ドーンは納得した。きっと、あの2人は今でも電話で話す仲だよ(笑)。エミリーの想いとドーンの想いが通じ合った。そしてドーンは、この複雑な役柄をエミリーは見事に演じきったと思っている。本当に僕と複雑な人間関係にあったドーンをね。

――ドーンがリビングルームで猫と遊んでいるシーン。あのエミリーの演技は、まさに自分があの家で目にしたドーンそのものでした。

【ケアー】ハハハハ。OMG、最高だよ(笑)。あのシーンは完璧だったよね。エミリーはあの猫のことも尋ねてきたよ。で、僕は「あの子は、僕のことが嫌いだった。完全にドーンの猫だったんだよ」と答えた。アッハハハハハ。映画の猫も、ドウェインに「シューシュー」って怒っていたじゃないか(笑)。どうやったら、あんな風になるのか分からないけど、あのシーンは100パーセント、再現されていたよ(笑)。最高、本当にパーフェクトだったよ。

■「日本のファンの優しさがあって、今、ここにいることができている。皆は僕のことを愛してくれた」

――今、レスリングやMMAとの関係はどうなっているのでしょうか。

【ケアー】良くなっているよ。困難な期間があったから……、レスリングやMMAの競技生活を続け、人生を賭けてきたモノから離れ、長い間、人生にぽっかり大きな穴が空いてしまったようだった。戦っていない自分は、何者なのか。僕のなかで、答えを見つけるのが困難だった。分かるかな?つらい経験を乗り越えようと戦っていたけど、さっきも言ったように自分が生きてきたファイティング・ワールドのことを僕は分かっていなかった。僕が何者かじゃないんだ。ずっと主体性を持たずに続けていたから、やってきたことを心理的に理解しようと必死だった。本当に困難だったよ。時間を掛けて、一つ一つ整理し続けた。(昨年に)UFC殿堂入りをした時に、それをドウェインに伝えたんだ。今も僕には喪失感があるって。このスポーツに関わる人が僕のことを覚えていなかったり、僕のことを何も知らなくても構わない。もう、済んだことだからと。でも、あの場に立つと涙が出た。すごいパワーを感じたんだ。

――素晴らしいですね。米国のメインストリームをいくようになったMMAですが、マークが言ったように多くのMMAファンはあなたのことを知らない。それは多くのファンがMMAの歴史を知らないからです。

【ケアー】ヒストリー。その通りだ。

――でも、日本のファンはマークのことを覚えています。そして日本には、あの頃のPRIDEを彷彿とさせるRIZINという大会があります。だからこそ、我々はマークが再び日本にやってくる日を楽しみにしています。

【ケアー】もちろん、僕も日本を訪れたい。何度も、そんなことを考えてきた。「ヘイ、5月に日本で上映が決まった」と聞かされた時なんて、「おかえり」と言ってもらっているように感じたよ。日本という国、日本の文化は僕を慈しんでくれた。文字通り、僕は日本ではヒーローだったんだ。

――今回、マークと話をするには時間が短すぎますね。ただ最後に一つだけ伝えたいです。2003年、サンパウロでADCC世界大会スーパーファイトに出場した時。あの時、現地でマークを見て、目に輝きがなく、自分が知っているマークとはまるで別人に感じました。心身ともに、普通じゃないと。でも今日、このようにリモートですがマークと対面できて本当にうれしいです。マークは、今もマーク・ケアーでした。

【ケアー】あの頃を振り返ると……、うん、そうだね。自分が求める動きが可能な運動能力を失っていることは分かっていたんだ。ただし、そのレベルから遠く及ばない、転がり落ちていることに気づいていなかった。ただひたすら、またやり直そうと思っていた。誰も「戦いを止めろ」と言わなかったからね。誰も言えなかったんだ。でも、ようやく自分でたどりついた。あまりにも、長くやり続けてしまったと。あの頃、僕に普通の常識が備わっていたら、とっくに辞めていただろう。ただ僕の人生として、ダメなことを良いことだと思っていたことも含め、一つ一つの積み重ねが必要だったのかも。つらかったけど、多くを学ぶためのレッスンだったんだ。人として、一つ一つ段階を踏んで今に至る。凄く感謝しているよ。(涙をぬぐいながら)本当に感謝している。

――とにかく日本のファンはマークのことを覚えています。また日本でマークに会えることを楽しみにしている日本のファンにメッセージをお願いできますか。古くからのMMAファンだけでなく、新しいMMAファンの皆さんにも。

【ケアー】OMG。日本のファンの皆さんに、感謝の言葉を伝えるだけで20分は必要だ(微笑)。日本のファンの優しさがあって、今、ここにいることができている。皆は僕のことを愛してくれた。声援を送ってくれた。そして、僕は皆のために戦った。あの時のように、また日本を訪れたい。僕は日本を訪れることで、成長できた。米国とは文化も何かも違う日本が、僕の視野を広げてくれたことを本当に感謝しているよ。


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