
出産当日に届いた赤紙。我が子との別れ、そして夫の戦死…。国家に翻弄された103歳の「戦争未亡人」が生き抜いてきた、過酷な戦後を追いました。
【写真で見る】我が子との別れ、夫の戦死…「戦争未亡人」が生き抜いた過酷な戦後
敗戦後 “過酷な運命”を歩んだ女性たち 夫との記憶には懐かしさ以外も
85年前、戦争の影が次第に色濃くなっていました。
当時、京都の神社で撮られた1枚。
参道を埋め尽くしたのは、戦地に駆り出された兵士の家族らです。
中には、数多くの女性たちの姿もありました。敗戦後、彼女たちは過酷な運命を歩むことになるのです。
京都市で暮らす小西富子さん(103)。
夫を戦争で失った小西富子さん
「あのころは食べるのに一生懸命だった。闇市に買い物に行って、汽車の屋根までのって皆買いに行って」
ケアホームから自宅に戻った小西さん。あの時の記憶が残されていました。
見つけたのは結婚式の写真。映るのは20歳の小西さんと、隣には夫・正三さん(当時23)です。
小西さん
「のんきな人ですわ。甘えん坊です」
懐かしさの一方で、正三さんとの記憶はつらいものでもありました。
「女は子どもを産む機械だと…」戦時下で婚姻数は激増
正三さんは、小西さんの親族が決めた相手でした。
夫を戦争で失った小西さん
「(戦争で)男の人があらへんさかいな、もろうてくれる言うたら、男の人あったら、目の色変えてもろうてもらわな思てな」
婚姻数は、日中戦争や太平洋戦争の開戦を経て激増します。出征する男性が増える中、女性やその家族は結婚を急いだとみられます。
小川彩佳キャスター
「戦争中というのは、どんどんみんな結婚して、子ども産んでくれって感じだったんですか?」
小西さん
「産めよ殖やせよでな、女は子ども産む機械みたいに言われたぐらい。そういう時代やったんやな」
より多くの男女を結婚させ子どもを生ませようと、国はこんな「心構え」を発表しました。
【結婚十訓】
「晩婚を避けよ」
「産めよ、育てよ、國の為」
しかし、結婚した男女は夫婦として過ごす時間も十分にないまま、男性は召集されていきました。
結婚から1年を前にし、娘が生まれた小西さん夫婦。まさにその日のことでした。
子どもが生まれた日に「赤紙」 さらに襲った不幸
夫を戦争で失った小西さん
「赤紙は11月24日に来た。赤ちゃんの生まれた日に来た。むちゃくちゃやんな昔は。政府の言うままやな」
さらに不幸が小西さんを襲います。生まれたばかりの娘が、1か月も経たずに亡くなったのです。
小西さん
「(涙を)こらえたやろ。そしたら涙が外へ出んと、鼻の奥へ入りよる気持ちやった」
小川キャスター
「その時に旦那さんは何かおっしゃっていましたか?」
小西さん
「何も言わへん、向こうも。こっちも言わへんしな。言えへんやんな、お互いに。うちが泣いてへんさかい『強いね』言うてただけや」
これが、2人の最後の会話になりました。
正三さんはビルマへ出征。戦死の知らせを受けたのは、終戦から数年後のことでした。
小西さん
「悲しかったことばっかりが多かったから、この時は。辛かったことばっかりやからな」
「栄誉」から一変 “戦争未亡人”の女性たちは貧困と偏見に直面
戦後、小西さんは正三さんの兄夫婦の家業を手伝いながら暮らしました。夫を失った悲しみから、再婚はしませんでした。
小川キャスター
「戦争未亡人という立場でいらっしゃるわけですよね」
小西さん
「嫌やったな」
小川キャスター
「どうしてですか?」
小西さん
「皆助けてくれへんもん。自分自身が食べるのがいっぱいやからな」
夫を戦争で失った女性は約56万人。「戦争未亡人」と呼ばれました。その多くは20代〜30代。彼女たちは敗戦により、偏見の目にさらされました。
夫を亡くした妻の証言です。
「戦時中私たちは、社会から『誉の家』とか『栄誉の遺家族』とかいってもてはやされた。
それがどうだろう、終戦のとたんに事情が一変して、社会は私たちを弊履(破れた履物)の如く捨て去ってしまった」
※窪田空穂ほか選『この果てに君ある如く 全国未亡人の短歌・手記』中央公論社より
1946年、GHQは遺族が受け取る軍人恩給を一時停止。子どもをもつ女性たちはいっそう厳しい生活を強いられました。
小西さん
「子たちがぎょうさん居はってな、食べさせなあかんやろ。女手一つでな。そういう方は気の毒やと、私はいつもそう思ってた」
女性たちが身を寄せた「母子寮」 父親のいない家庭にも差別の目
あすをも知れぬ女性たちが、身を寄せ合った場所がありました。全国に100か所以上あった「母子寮」です。
そのうちの一つが、京都市にありました。
寮長の芹澤さん。祖母・村山種さんの代から今も同じ場所で母子の暮らしを支えています。
野菊荘 芹澤出 施設長
「(戦後は)仕事のないお母さんが仕事に行く人の子どもを保育する。30世帯が共同生活してたような生活だったと聞いてます」
学生時代、この寮で暮らしていた中村武司さん(85)に話を聞くことができました。
父親を戦争で失った中村武司さん
「(母は)箱入り娘やからね。子ども3人いるのに3人どうやって育てようかっていう感じでしょ」
大黒柱だった父親を戦争で失い、裕福だった生活は一変。代わりに家族を養うことになった母親は内職をするなどし、女手一つで子どもを育てました。
中村さん
「帯の先を結べるように(する内職)。1枚なんぼやったんやろ、3円かな。内職が出来たやつは僕が運んで」
しかし、苦難は貧しさだけではありませんでした。
中村さん
「差別らしい言葉を吐く人もおったしね。母子寮っていうのはほとんど未亡人ばっかりですよ。そういうところから就職するんですから。後で聞いたら会社の人が母子寮へ来たと。『どういう子どもや』という風に母子寮の寮長さんに聞いたらしい」
戦争で父親を失った家庭にも、差別や偏見の目が向けられました。
中村さん
「母親は辛かったと思うんですよ。相当苦しんだと思うんですけどね、子どもを育てるために。80年近く経ってるんかな。そりゃ(戦争を)経験してない人の方が多いんだからね。当たり前と言えば当たり前かも分からんけれども、せやけど絶対忘れたらいかんと。思い出すたびにやっぱりね」
夫と子を失い…戦後60年にわたり母子の支援 「自分の生きがいに」
夫と子どもを失った小西さんは戦後、約60年にわたり地域の福祉会で母子の支援を行いました。
夫を戦争で失った小西さん
「(子どもが)ないさかいに、人の子を皆世話してな。それが自分の生きがいみたいにしてな。人の世話してな、よかったなと思うてる」
戦時中、家族らが参道を埋め尽くした神社。「見たいものがある」と小西さんは私たちを境内に誘いました。
小西さんたち戦争未亡人が夫を弔うために建てた石碑です。
小川キャスター
「この前に立つと、どんな気持ちになります?」
小西さん
「ご苦労さんやったな思ってな。気の毒やな思って涙出るな。しんどい思いしてな。みんな亡くなってるんやもんな」
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