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放送は窮屈だからこそ面白い<明日のジャーナリズムへ>第5回【調査情報デジタル】

国内
2026-08-29 09:00

SNS全盛時代にあって、新聞やテレビなど伝統的な報道機関の持つ影響力や存在感は相対的に弱くなったと指摘される。しかし、健全な民主主義社会には専門的に報道に携わる組織あるいは個人が不可欠であることは論をまたない。ただ、そうした人たちの取材報道活動=ジャーナリズムを時代にあわせてアップデートすることは重要だ。そのために必要な議論の素材を提供する目的で始まった、専修大学ジャーナリズム学科・山田健太教授による連載「明日のジャーナリズムへ」の第5回は、「放送」というメディアが持つ特性についての論考。


放送は窮屈なメディアだとよく言われる。番組を作る現場においては、あれはダメこれもダメと、いろいろと制約が多いのが現実だ。もちろん、送り手の「倫理的責任」としてテレビやラジオに関わらず自制しているものも少なくなく、むしろジャーナリズム活動としての当然の態度であって、まさに自主自律の表れでもある。しかし、こうした放送の現場(あるいは経営)が抱えるプレッシャーが、他のメディアと大きく異なる側面が存在することも事実だ。それは、法が介在する場合が少なくないからである。


今回は、そうした放送が持つメディア特性を概観しておきたい。それは、放送に携わる者としての最低限のたしなみであるとともに、視聴者・聴取者である受け手が、正しく放送を理解し、批判するための基礎でもあるからだ。


いまのテレビはつまらないと一刀両断に切り捨てるのは簡単であるが、番組制作の「条件」を知った上で、そのメディアの価値を判断することが大切である。物事には必ず裏と表、デメリットもあればメリットもあるのだから。


放送免許というシロモノ

YouTube(ユーチューブ)やNetflix(ネットフリックス)と、いわゆるテレビ番組との最大の違いは、コンテンツを流すにあたって国からの「免許」を必要とするかどうか、である。自動車を公道で運転するのにあたり行政(警察・公安委員会)が発行する運転免許証が必要なことは誰でも知っているが、放送に国家免許が必要なことは世間的にはあまり知られていない事実だ。


正確には「放送」というより「電波」を発信するにあたっては、一定の条件の定めがあり、それをクリアすることが求められている。したがって、放送局のみならずアマチュア無線であっても、無免許で電波を発出することは法で禁止されている。どの国でも、いわゆる周波数ごとに国が管理をしているのが当たり前で、この帯域は警察用とか放送とか個別に定められており、最近だと携帯電話のための帯域が拡大する傾向にあるのは想像の通りだ。そしてこの周波数帯を利用するのに、国は「利用料」を徴収しており、特定財源として大きな収入源でもある(注1)。


(注1)電波利用料は一般会計に入り、電波管理のための特定財源となっている。


ただ問題は、この免許の管理の仕方が日本は独特であることにある。先に「国」が管理していると書いたが、それは電波が、公物であり、有限である、さらには社会的影響力が大きいことなどを理由に正当化されてきている。しかしだからと言って、公権力が恣意的に利用者を決めることが許されるはずはない。それが許されれば、政府に批判的なものは電波を利用することができなくなってしまうからだ。


そこで多くの国では、直接、政府が免許の交付に介入できないように、独立行政機関を設置して、外形的な基準(誰がみても納得できるような合理的な基準)をもとに利用者(放送局)を決めている。しかし日本の場合は、直接に政府(総務省、以前は郵政省)が内部的な審査によって、どの会社に免許を与えるかを決める仕組みになってる。


2016年に当時の総務大臣である高市早苗・現総理大臣が、政府がおかしいと思えば「停波(免許を取り上げる)する」といったことが言えてしまうのが、まさに日本的な免許の仕組みであるといえるだろう(注2)。


(注2)詳しくは、拙著『放送法と権力』(田畑書店、2016年・2024年追録電子版)参照。2016年2月8・9日の衆参国会審議での大臣答弁で、放送法に抵触すると政府が判断すれば電波を停止する旨を発言。その後の政府統一見解に続く。


日本の地上波放送は、全国放送である公共放送NHKと、地方(圏域)放送である商業放送(民放=民間放送)の2層構造で成り立っているが、この並立体制は自然に成立したものではなく、まさに強力な放送行政の賜物でもある。さらにいえば、県ごとの地方放送局の数も、地元経済界との阿吽の呼吸(というよりも強力な1本化調整)の結果、2から6局の間で商圏見合いの放送局の数が定められている。これもまた、免許権限のなせる業である。


しかもこの放送免許は、自動車免許のように一度取得してしまえば、ほぼ自動更新であるのとは違い(日本の場合、不必要に高い更新料が必要だが)、5年ごとにイチから厳しい審査をやり直す形式で、放送局は結果として常に政府に見張られているような立場に置かれることになる。確かに政府のお墨付きがあるわけで免許期間中は安定的ではあるが、安心してください、監視していますから――と言われて気持ちがよいはずはない。


放送法の定め

この免許の根拠法は「電波法」で、あくまでも財政的な基盤や十分な送信設備といった「施設」に対する免許ではある。しかし放送の場合、直接話題にあがるのはもう1つの法律である「放送法」だ。


このなかに、さまざまな番組に関する定めが設けられており、形式的には放送法に反した場合、電波上の免許の可否に影響を与えるような「たすき掛け」の条文が存在し、それを根拠に政府の一方的な「新」解釈によって、番組内容によって停波が可能であるかのような圧力を放送局が日常的に受ける構図が出来上がってきた。


ちなみに、多くの国ではメディア別に法体系を構築してきたが、その分け方は、印刷・放送・通信であることが一般的で、日本も例外ではない。そのそれぞれにおいて、事業(ビジネス)面と内容(コンテンツ)面で法を定め、メディアをコントロールすることになっている。


順にみていくと、印刷(新聞や出版、ビラやチラシなど)は事業でも内容でも全く法律が存在しない、というのが日本の大きな特徴だ。一方で放送は、先に述べたように事業では電波法が、内容では放送法が存在し、法による規律のもとにある。ちなみに通信は、内容面では憲法の通信の秘密に守られ制限がなく、事業面では届出制など緩やか制約を受けるということになる。


では改めて、放送法は何を定めているのか。その第1条にはこうある。全文をあげておこう。


「この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。」


ここでの注目ポイントは2つ。1つは「表現の自由」の確保を目的としていること(2項)。2つには「民主主義」の発達に資することを目的としていることだ(3項)。


先に放送は国のコントロールを受けると書いたが、あくまでも大原則は、放送も当然、憲法21条の表現の自由の保障の対象であるということを忘れてはいけない。他のメディアと全く同じように、自由を享受している表現主体である。そして後者は、放送法がわざわざ民主主義を条文に記した3つしか存在しない貴重な法律の1つであるということだ(注3)。


(注3)ほかには、「文字・活字文化振興法」と「公文書等の管理に関する法律」がある。前者は「文字・活字文化が、人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識及び知恵の継承及び向上、豊かな人間性の涵養並びに健全な民主主義の発達に欠くことのできないものである」とし、後者は「公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものである」と謳う。


さらに言えば、その民主主義を守るためには「放送に携わる者の職責」が求められているとしており、まさに経営者から記者や番組制作者、さらには総務や事業などすべての<放送人>が、その職務上の責務を全うすることが期待されていることになる。


この基本姿勢を大前提として、さまざまな制度が出来上がっていることになる。具体的には、以下のような仕組みで聴取者・視聴者に対し放送人がなすべきことが定められている。まさに、「放送人の視聴者に対する約束事」であるわけだ。


第1は、自分たちの作る番組の原則を宣言する。(1)公序良俗、(2)政治的公平、(3)事実報道、(4)多角的論点の呈示の4つの編集方針だ(4条)。


続いて第2に、具体的な編集基準を策定し公表することが決められている(5条)。あわせて、教養番組、教育番組、報道番組、娯楽番組といった総合放送をすることも約束事だ(106条)。


第3は、これらを日常的にチェックするために視聴者代表の番組審議会(放送番組審議機関)を置くことを約束し(6・7条)、第4にはそれに反した場合は訂正放送をすること(9条)、そのためには番組を一定期間保存し、求めがあれば見せること(10条)も決まっている。(注4)


(注4)これらのほかに、災害放送をすることも定めている(108条)。ただし実際、各局が災害放送をする際には、この法の定めを超えて自主的に実施している。またNHKは「あまねく」全国津々浦々に放送すること(15条)、民放もそれに準じた努力義務が課されている(92条)。


自律性を取り戻す努力

こうした約束事を放送局が守らなかった場合のセーフティーネットとして放送界は、法枠組みとは別に自主的にBPO(放送倫理・番組向上機構)を設置して、視聴者への責務を果たすべく仕組みを整備しているわけだ。もともと1980年代以降の厳しいメディア批判に対応する形で苦情対応組織として1997年に発足したのが始まりで、その後、市民社会や政治家からの批判に対応する形で組織を充実させ、2007年に「放送人権委員会」「放送倫理検証委員会」「放送青少年委員会」という現在のかたちになった。


このBPOが機能するためにも、まずは放送法自体が倫理的規範であって、放送人の職責によって維持されるということがなくてはならない。この点、政府も従来はこうした考え方をとっていたものの、1990年代より社会の耳目を集めるような事案をきっかけとして、放送法は法的拘束力を持つ、その違法判断は政府が行う、しかも1つの番組の中で判断可能と、どんどん時の政府の恣意的な判断で、番組の違法判断ができるように解釈を変えてきた歴史的経緯がある。その1つの「ゴール」が先述の高市発言であるということだ。


この「倫理的規範」か「法的拘束力」を持つかは、放送の自由を確保する上で大きな分かれ目であるが、残念ながら放送界の現場は後者の解釈に従った運用がなされているようにみえる。それは、とりわけ選挙期間中の「公平呪縛」が強いさまに表れてきた。実際、TBSやテレビ朝日をはじめとする、具体的な番組やキャスターに対する「偏向報道」バッシングが、自由な番組制作を邪魔してきた側面が強い。


そのロジックは、政治的公平さは数量平等を求めている。したがって、一方的な政権批判は量的なバランスを欠いており違法だ――というものだ。まさに政権批判が偏向報道との理屈を誕生させることで、しかも1つの番組で判断可能とすることにより、特定番組・特定出演者批判が渦巻くことになった。それでも今のようなネット上の切取り動画による集中砲火や、人権を蹂躙する罵詈雑言がなかっただけでもマシであったともいえるが、政権党による出演拒否などもあって、番組作りが萎縮していったことは否めない。


こうした動きの中で、本来の放送法解釈をきちんと理解してもらう試みもなされ、民間版の「放送法逐条解釈」が主要な憲法・言論法(ジャーナリズム法制、情報法・メディア法)の研究者の手で編まれた。『放送法を読みとく』(商事法務)がそれだ(2010年の放送法大改正を受けて、改訂版の『放送制度概論』がある)。BPOの解釈や見解もこちらの解釈に沿っている。


これに対し、元総務事務次官の金澤薫氏が監修した総務省版の通称・金澤本(『放送法逐条解説』)があるのだが(現在は第2版)、残念ながら放送局の現場は、この総務省版に沿った運用がなされているのが現状だろう。


先の選挙報道の見直しに際して放送はじめ報道界は、改めて選挙報道の自由を確認したわけであって、それはイコール、放送を含む報道の「自主自律」の考え方を確認したものだ。これがきっかけになって、とりわけ放送界が横の連携を保ちつつ、自由の拡張のために具体的な行動をすることが必要であろう。


その基礎は、個々の放送人の心の持ちようであることは言うまでもないし、そうした社員をサポートする社の姿勢は是非ものである。個・社・界のいずれもが同じ方向に向くことで、はじめてここ30年続いてきた後退戦の転機が訪れることになると思う。


制約の中でもより面白い番組を

一方で、視聴者・聴取者からすれば、「辛口の友人」として支えたくても、それに応えてくれる放送ジャーナリズムが存在しなくては支えようがない。そのための答えは1つ。作り手が面白い番組を作ることに尽きる。豊かで自由な言論情報空間の重要な担い手として、報道も、ドラマも、情報バラエティも、エンターテインメントも、すべてが社会性を持った「ジャーナリズム活動」だ。


日本の場合、世界の中でも極めてまれに、地上波テレビが全国津々浦々に完全普及し、タダでテレビが観られる環境が続いている。さらにネット上でもTVer(ティーバー)が普及し、YouTube独り勝ちの様相の動画無料プラットフォームに対抗軸が存在している(音声メディアに関しては、radiko・ラジコもある)。こうした強みももっと生かせるはずだ。


昔から、ちょっとした制約がある方がさまざまなアイデアが生まれ、豊かな想像力が発揮されるものだ。まさに放送が、自由過ぎるネットメディアに対抗して、より面白いコンテンツを発信する時代環境にあるとも言えるだろう。しかも分断の時代にあって、大量一斉送信というメディア特性によって、市民社会のなかで共通の話題を提供する社会的役割はよりいっそう重要になっている。その時、万が一にも為政者のプロパガンダに利用されていると思われることは命取りだ。


<執筆者略歴>
山田 健太(やまだ・けんた)
専修大学ジャーナリズム学科/大学院ジャーナリズム学専攻教授。
専門は言論法、ジャーナリズム学。
自由人権協会代表理事、日本ペンクラブ副会長。放送批評懇談会、情報公開クリアリングハウスなどの各理事を務める。BPO人権委員会など歴任。
主な著書に、『法とジャーナリズム 第4版』(勁草書房)、『ジャーナリズムの倫理』(いずれも勁草書房)、『沖縄報道~日本のジャーナリズムの現在』(ちくま新書)、『転がる石のように~揺らぐジャーナリズムと軋む表現の自由』(田畑書店)ほか多数。
専修大学で一般公開の「表現の自由研究会」を開催中。


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