戦後最大の疑獄と言われたロッキード事件。その捜査に携わった元特捜検事・堀田力弁護士(13期)が11月24日に亡くなった。享年90。
緻密で鋭い追及は「カミソリ」の異名で知られ、同事件ではアメリカ側との交渉の末、捜査資料の入手に成功し、田中角栄元総理の逮捕という一大局面を切り開いた。
【画像で見る】自宅で日本刀を見せる児玉誉士夫(1958年12月)
30年に及んだ検事生活。だが、1991年、定年を待たずして57歳で退官、弁護士となって福祉事業やボランティアの世界に身を投じた。
筆者が司法記者クラブ詰めになったのは、堀田弁護士が退官した翌年のことだ。
以降、折に触れて取材を重ね、たびたび番組にも出演いただいた。
その堀田弁護士の事件解説は、厳しい論評の中にも、現場への深い理解と熱いエールが込められていた。
感謝と追悼の意を込め、過去の取材やインタビューを紐解き、“カミソリ堀田”の足跡をたどる。
「児玉ルート」の捜査のゆくえ
ロッキード社の航空機売り込みをめぐる疑惑には、ロ社から日本の「政府高官(大物政治家)」に流れたとされる3つのルートがあった。
このうち、最大の金額である「21億円」が渡ったとされる先は“政財界のフィクサー“と呼ばれた黒幕・児玉誉士夫だった。
東京地検特捜部は事件発覚から1か月後の3月4日、国会の証人喚問に応じないまま、自宅で療養していた児玉への臨床尋問に踏み切った。
臨床尋問を担当したのは“ミスター検察”と呼ばれた異色の工業高校出身、松田昇検事(15期)だった。東京・世田谷区等々力の児玉邸に出向き、妻と主治医の立ち会いのもとで児玉と向き合った。
数回にわたる取り調べの結果、児玉はロッキード社からカネを受け取ったことを認め、これを税務申告していなかったことも自白した。
当時の関係者によると、児玉は自宅の和室に敷かれた布団に、あおむけに寝たきりの状態だったが、松田が供述調書を読み聞かせた上で、「これはあなたにとって不利な証拠ですが、サインしますか」と聞くと、「します」と同意したという。
ところがなかなか書いてくれない。しばらくして児玉はこう言った。
「検事さん、誉士夫の漢字が思い出せません」
松田が「結構ですよ、仮名でも」と告げると、児玉は「ヨシオ」とカタカナで署名し、拇印を押したという。
3月13日、東京地検特捜部は児玉を約8億5374万円の「脱税」の罪で起訴した。時効の前日だった。
その児玉起訴から10日後の3月23日、29歳の自称右翼の男が、セスナ機で児玉邸に突入するという自爆テロ事件が起きた。
警察によると、男はもともと児玉に心酔していたが、「証人喚問」にも出てこない児玉への怒りが動機とみられた。児玉は別の部屋にいて無事だった。
「天皇陛下万歳」と叫んで突っ込んだ男。海外のメディアはこの事件を「最後のカミカゼ」などと報じた。
特捜部は児玉を「脱税」で立件したことを突破口に、「児玉ルート」の核心部分の追及に乗り出した。
次なる焦点は、ロ社の航空機「トライスター」や軍用機「P3C」の売り込み工作に絡む本丸の「贈収賄事件」につなげることだった。
「21億円」の見返りに児玉がどのようなことをしたのか、またその巨額資金がどのように使われたのか。
キーマンの一人が、児玉とロッキード社の交渉の場に、必ず同席していたというF通訳だった。
冒頭陳述などによると、F通訳はもともと進駐軍の通訳をしていたが、A級戦犯容疑で「巣鴨プリズン」に収監されていた児玉の通訳をしたことがきっかけで、親交を深めた。児玉の著書『われ敗れたり』の英訳も手掛けている。
児玉の出所後、F通訳は自ら立ち上げたPR会社の取引先だったロ社の幹部に、児玉を紹介した。
ロ社としては、代理店の丸紅だけを頼りにするのではなく、政財界と深い繋がりのある児玉の影響力が必要であると考えていた。
のちにコーチャン副会長は「児玉はロッキード社の日本における国防省」と証言している。
特捜部は、入院先の病院でF通訳から事情聴取を続けた。調べに対し、F通訳はこう打ち明けた。
「ロ社のクラッター日本支社長に児玉さんを紹介した。クラッターは児玉に軍用機「P3C」がいかに優れているかを説明し、防衛庁への働きかけを依頼した」
さらに、ロ社のクラッター日本支社長と児玉が金銭のやりとりしていたことや、それが児玉の事務所や自宅でF通訳を介して行われていたことなど、特捜部はF通訳から、児玉とロ社の関係を裏付ける供述も得られていた。
しかし、F通訳はこの頃から肝硬変が悪化し、面会すらままならない状況が続く。
そして回復することもなく6月9日、東京・新宿の東京女子医科大学病院で、60歳の若さで亡くなったのだ。
その結果、「児玉ルート」の捜査は大きく後退することとなった。さらに、のちに米側から提供された未公開資料のなかにも、なぜか軍用機「P-3C」の売り込みに関する情報は含まれていなかった。
ロッキード社から児玉が受け取ったとされる「21億円」の真相は、闇へと消えた。
アメリカの未公開資料から「丸紅ルート」が急浮上
児玉邸セスナ機自爆テロ事件翌日の3月24日、アメリカからの未公開資料提供に関する「日米司法取り決め」が調印された。
これによって、日本が「政府高官の名前を公開しない」という条件で、米国SEC(証券監視委員会)の捜査資料が提供されることになった。
4月2日、渦中の田中角栄元総理が、久しぶりに派閥の臨時総会に姿を現し、疑惑をきっぱりと否定した。
一方、その直後4月6日、今度は三木武夫総理が記者会見で、ロッキード事件の真相解明に全力を挙げることを宣言した。
しかし、水面下では田中派などを中心に、三木に反発する動きが活発化していた。
5月13日、読売新聞が「椎名、大平、福田ら三木首相退陣で一致」とスクープ。自民党内で三木を総理の座から引きずり下ろそうとする「三木おろし」の動きが表面化する。
田中総理の後継として三木を指名した自民党の椎名悦三郎副総裁はこう評した。
「三木君は、はしゃぎすぎだ」
椎名副総裁は、三木政権の生みの親とも言われたが、「生みの親だが、育てると言ったことはない」という名言を残している。
こうした椎名らの「三木おろし」に対して、マスコミは「ロッキード事件隠しだ」と批判、国民からは真相究明を求める厳しい声が一層高まった。
「日米司法取り決め」にもとづき、特捜部の吉永は4月6日、SECの未公開資料を受け取るために、特捜部の資料課長ら2人の事務官をアメリカへ密かに派遣した。
2人はメディアに気づかれないようにアロハシャツに付けつけひげで変装し、羽田空港を飛び立った。
4月10日、特捜部資料課の2人はアメリカから未公開資料のコピーの分厚い束を受け取り、日本に帰国。
空港から吉永に電話でマスコミに気づかれてないことを報告すると、吉永からは意外な指示が返ってきた。
「もうマスコミにはバレてるから、変な格好で検察庁に入ってくるなよ」
空港で着替えた2人は、未公開資料を抱えて検察庁に向かった。案の定、検察庁前には特捜部の動きを察知した多くの報道陣が待ち構えていた。
アメリカから提供された未公開の捜査資料が、ようやく検察庁に到着した。
2000ページを超える膨大な資料は、金庫の中に厳重に保管された。
堀田は、翌日から吉永とともに資料の解読作業に着手した。
丹念に目を通す中で、ある異様なチャートが目に留まった。それはロッキード社のコーチャン副会長が手書きしたと見られる「人物相関図」だった。
幾重にも交錯する線と名前が描かれたチャートは、事件の核心を暗示するような存在感を放っていた。
そこには、丸紅や全日空の役員、児玉誉士夫や小佐野賢治らの名前が並び、それを結ぶ矢印が描かれていた。
驚くべきことに、丸紅の檜山会長と大久保専務から伸びる矢印の先には、ローマ字で「タナカ」の名前があった。
その矢印が集中して向かう先―それは、当時の総理大臣、田中角栄だった。
「矢じるしがタカナに向かって集中していた。田中角栄はその時の総理大臣。捜査の筋として、ワイロの最終ターゲットはタカナだと思いました」(堀田)
また、コーチャン副会長の日記には、田中政権下の1972年8月23日、丸紅の檜山社長(当時)と大久保専務が、東京・目白の田中総理の自宅を訪問した記録が残されていた。
加えて、田中政権発足直後の1972年8月20日、コーチャン副会長がトライスター機の売り込みの最終確認のために来日したという記述もあった。
さらに、ロッキード社のメモには、政府高官の名前が列挙されていた。「タナカ、ハシモト、サトー……」と記されたそれぞれの名前の横には、何やら具体的な数字が添えられていたのだ。
ローマ字で記された「タナカ」は田中角栄元総理大臣、「ハシモト」は橋本登美三郎元運輸大臣、「サトー」は佐藤孝行元運輸政務次官を指すことは明白だった
その数字は、彼らが受け取った金額を示していると推測された。
米国からもたらされたこれらの未公開資料により、「丸紅ルート」が急浮上した。
捜査の軸足は「児玉ルート」から「丸紅ルート」へ大きくシフトすることになった。
特捜部はロッキード社の民間機「トライスター」売り込み工作をめぐる丸紅を通じた、田中元総理への「5億円」の解明に向けて、捜査を一気に加速させたのである。
田中政権は1972年7月に発足。全日空がロッキード社の「トライスター」採用を決めたのは、1972年10月だった。
この間に、丸紅側から田中総理側への工作があったとみられていた。
当時のTBSニュースは、全日空がトライスターの採用を決めたあとの1974年2月、ロ社のコーチャン(当時は社長)が、1号機を羽田空港で引き渡す式典の模様を伝えている。
赤い花束を持ってタラップを降りるコーチャン、その姿を見上げながら拍手で迎える全日空の若狭得治社長や幹部、キャビンアテンダントたち。
式典の華やかさの裏側で、いったい何が起きていたのだろうか。
特捜部は、「トライスター」採用に至った選定経緯を明らかにするため、全日空や丸紅の役員に次々と出頭を求め、一斉事情聴取を開始。
捜査の包囲網は急速に狭まりつつあった。
ロッキード社側が「嘱託尋問」を拒否
法務省刑事局の参事官だった堀田は、希望が叶い、4月から正式に東京地検特捜部に異動。
そして、4月29日から2度目の渡米を命じられた。米国で捜査権のない日本の検察官に代わって、司法省にロッキード幹部を取り調べてもらう「嘱託尋問」を取り付けるためだった。
米国司法省、SEC(証券取引委員会)の関係者と打ち合わせを繰り返した。
この間、日本にいる主任検事の吉永と連絡を頻繁に取り合った。
司法省のクラーク検事から情報提供されたSECの英文資料を読み込み、節目節目で国際電話で報告した。
米司法省は、国外犯を米国で処罰することはできない。一方で、クラーク検事らは「不正義がまかり通るのは許せない」との正義感から、堀田への協力を惜しまなかった。
吉永は、堀田からの報告を聞きながらコーチャン副会長、クラッター日本支社長らに対する「嘱託尋問調書」の質問事項を練っていた。
5月14日、堀田は「SEC」での「コーチャン証言速記録」などの新しい資料を持っていったん帰国した。
堀田が持ち帰ったSECの資料には、コーチャンのさらに詳しい証言内容が含まれていた。
【コーチャン証言より】
・1972年8月20日頃、トライスター売り込みの最後の仕上げに来日した。
・その際に金額のことを持ち掛けてきたのは、丸紅の大久保専務らである。大久保からトライスターの売り込みのためには「5億円」必要であると言われた。
・ロッキード社の日本支社は「丸紅」に「5億円」を「4回」に分けて支払った。
そのときの領収書が丸紅・伊藤専務がサインした「ピーナッツ」「ピーシーズ」である。
その一方で、堀田は「嘱託尋問」に関して問題が生じていることを吉永に報告した。
「実はコーチャンらが「嘱託尋問」に応じるための条件として「罪を問わないこと」を保証してほしいと言っています。身の安全がはっきり保証されない限り、証言はできないと。
検事総長から「絶対に起訴しない」「罪を見逃す」という“不起訴宣明書”をもらうことは可能でしょうか」(堀田)
これは、コーチャン副会長らがどんな証言をしても、日本の法律では裁かないことを検察トップに保証してもらいたい、という要求だった。
つまり、日本の捜査当局がロッキード社幹部の「刑事責任を問わないこと」「罪を見逃すこと」を文書で確約しろということだ。
当時、日本では司法取引の一種にあたる「刑事免責」は認められていなかった。
時効まで残り3か月という状況下で、検察は厳しい判断を迫られた。
「嘱託尋問」を開始しなければ、コーチャンらの証言を引き出し、その「供述調書」を受け取ることができない。堀田は吉永を説得し、その結果、フセケンこと布施検事総長は5月20日、ロッキード社側の要望に応じ「不起訴宣明」を出すことを決めた。
「コーチャンらが証言した事項については、たとえそれが罪となる場合でも起訴しない。この決定は後任者にも拘束力を持つ」(布施検事総長の不起訴宣明)
休む間もなく堀田は5月26日、東条伸一郎検事(17期)と2人でアメリカに乗り込んだ。コーチャン副会長らの取り調べ、いよいよ嘱託尋問の手続きに入るためだ。
これが3回目の極秘渡米だった。
驚きのあまり、頭が真っ白になった
堀田にはさらなる大きな困難が待ち受けていた。
ロッキード社側の弁護士は、「嘱託尋問」は「違法」にあたると主張して、コーチャン副会長らは嘱託尋問、取り調べを拒否したのである。
「ロッキード社側のとびきり優秀な弁護士3人から、すさまじい抵抗を受けました」(堀田)
やはりコーチャンらは、日本の捜査当局から逮捕されることを恐れていたからだ。
「嘱託尋問」の開始、そして証言記録の入手が大きくずれ込むことになった。
コーチャンらの証言拒否を受けて、ロス地裁は堀田に難題を突きつけた。
「検事総長が保証したコーチャンらの不起訴についての刑事免責を、さらに日本の最高裁判所が保証すること。その決定がない限り、嘱託尋問の証言記録を日本側に渡さない」
堀田は「驚きのあまり、頭が真っ白になった」という。
検察トップの検事総長の約束だけでは不十分であり、さらに最高裁判所が、検察が起訴しないことを将来にわたって保証しろという要求だった。
「そもそも日本の裁判所は起訴や不起訴の権限をもっていない。そんなことを最高裁判所に頼めるだろうか…」(堀田)
時効期限が1か月後に迫っていた。
堀田からの国際電話で相談を受けた吉永は、直ちに検察幹部、法務省刑事局と協議、最高裁に合意を取り付けた。
つまりこういうことだ。検事総長がコーチャン副会長らに対する「不起訴」を確約し、さらに「最高裁判所」がその「不起訴」に法的正当性を保証、お墨付きを与えるという前代未聞の対応であった。
日本の法律にはない「超法規的措置」によって刑事免責を与えるという異例の対応が取られたのだ。
堀田はのちにこう振り返った。
「そもそも実際問題として、日本にいないロッキード社幹部をどうやって処罰できるのか、物理的にできないし、可能性は皆無だったが、証拠入手のためには刑事免責を保証することは不可欠な状況だった」
三木総理大臣からの一本の電話
ちょうどこの頃、ロスに滞在していた堀田に日本から一本の国際電話がかかってきた。
田中元総理逮捕の1カ月前のことである。
なんと、電話の主は現職の総理大臣、三木武夫だった。
捜査の進捗状況を探る異例の電話だった。
事件から30年後の2006年、堀田はTBSのインタビューでこう振り返っている。
「捜査の進捗状況を知りたいという主旨でした。
はたして捜査はどこまでのびるのか、いつやるのか(着手するのか)などを聞かれました。
現職の総理大臣からの電話など異例中の異例です。
すでに自民党内で、三木さんを引きずり降ろそうという『三木おろし』がはじまっていましたし、切羽詰まった様子がひしひしと感じられました」
堀田は三木の置かれた状況を理解しつつも、捜査内容については答えを差し控えた。
その後、三木から再び電話が掛かってくることはなかったという。
一方で、特捜部は6月以降、丸紅のキーマンを次々と逮捕。
もはや、コーチャン副会長らの「嘱託尋問」の結果を待っている余裕はなかったのだ。
収賄罪の「時効3年」の期限が8月9日に迫っていたからだ。(のちに法改正で5年に)
丸紅専務から田中元総理の秘書に1回目の現金が渡されたのが、3年前の1973年8月10日だと認定していたからだ。
この期日を過ぎれば、田中元総理を訴追する機会が失われる可能性があった。
6月22日、丸紅の大久保専務を偽証容疑で逮捕。大久保専務は、檜山会長とともに田中邸を訪問していたキーパーソンの一人で、ロッキード事件で初の逮捕者となった。
(贈賄、外為法、偽証の罪で上告中に死去)
大久保専務から供述を引き出したのは“落としのムラツネ”と言われた村田恒検事(10期)だった。相手の心を静かに崩していくことで知られていた。
黙秘を続ける大久保、取調室に重い沈黙が漂うなか、村田は、自らの生い立ちを語りはじめた。
「実家は三重県の津です。乳牛を30頭ほど飼っていましたが、小学校5年生の時、戦争が起きました。B29の爆撃を受けて、家が全壊しました。
財産は一切なくなり、母親は足を負傷し、姉も亡くなりました。それでも兄が貧乏しながら学費を工面してくれて、なんとか大学に行くことができたんです」
大久保は少しづつ村田に胸襟を開き、打ち解けていったという。やがて容疑を認めた。
「檜山と田中邸に同行し、その際ロ社からの支出すべき金額が、5億円になったと聞きました」
「檜山の指示でコーチャンと交渉し、トライスターの売り込みに成功したら、5億円を出してもらうことなりました」
「クラッターから『金の準備が整った』という連絡を受け、それを伊藤専務に取次ぎました」(公判記録より)
大久保はさらに、ロッキード発覚直後に現地調査に行って、帰国すると、シナリオができていて、それは全て檜山会長と伊藤専務が主導したものだと主張した。
また米国でのコーチャン副会長の証言を受けて、檜山会長が激怒し、「謝罪文をもらってこい」と指示を受け、コーチャンに依頼して謝罪文を書かせた経緯なども明らかにしたのだ。
村田は大久保について「彼が誠実で真摯な人間であることは、取り調べの中ですぐにわかった」と後に語っている。
丸紅のキーマンら逮捕
ロッキード捜査が佳境を迎えた7月。本丸に迫る特捜部の一連の動きを時系列で見ていこう。
7月2日、特捜部はそのワイロを実際に渡した当事者である丸紅・伊藤専務を逮捕した。
(贈賄、外為法、偽証で有罪確定)
伊藤専務の取り調べには、当時33歳の若手検事、松尾邦弘(20期)が抜擢された。
松尾の取り調べに対し、伊藤は、ロッキード社が用意した金を受け取るたびに“ピーナッツ”領収書に署名したことや、ワイロの「5億円」は「4回」に分けて渡したことなどを供述した。
「1回目は、ロッキード東京支社でクラッターから1億円入りの段ボール箱を受け取り、その後、田中総理の榎本秘書に連絡して、イギリス大使館裏手のダイヤモンドホテル近くの路上で渡しました」
「現金は、田中総理が地位を利用してトライスターを全日空に売り込んでくれたことに対するお礼として渡すもので、後ろめたい金であることは承知していました」
(公判記録より)
また檜山会長からの具体的な指示についても自供した。
「檜山から、どうしても全日空にトライスターを売り込みたいので、田中総理に頼むのはどうだろうと聞かれました」
「金を総理に渡す役を、大久保君と相談しながらやってくれ。総理から榎本秘書に話がいってるはずだから、彼と連絡をとって受け渡しをするようにと言われました」
(公判記録より)
7月6日、ロスの堀田が、長い交渉の末、ロッキード社幹部の「嘱託尋問」にこぎつけた。
「刑事免責」により罪に問われないことが決まったため、コーチャン副会長やクラッター日本支社長は、事件の詳細を語り始める。
「1972年8月21日に、丸紅の檜山社長(当時)と会い、田中総理(当時)に「トライスター」の全日空への売り込みを頼んだ。成功させるには『5億円』のカネが必要だと丸紅の大久保専務(当時)から言われた。カネの支払先は田中総理である」
(コーチャン「嘱託尋問調書」より)
7月8日、特捜部は全日空ルートの本丸、若狭・全日空社長を偽証容疑と外為法違反で逮捕(有罪確定)した。
7月9日、堀田はクラーク検事らの協力で、コーチャンらへの「嘱託尋問」を終了した。
これにより、特捜部はコーチャンらの「嘱託証人尋問調書」を入手することに成功した。
7月13日、特捜部は丸紅のトップ、檜山会長(当時は社長)を外為法違反で逮捕した。(贈賄罪、外為法、議院証言法違反で有罪確定)
檜山会長の取り調べにあたったのは吉永が、横浜地検から呼び寄せた安保憲治検事(8期)だった。
公判記録などによると、檜山会長は当初、安保検事に対して挑発的な態度をとっていた。
「すぐ釈放してくれ、何の証拠があっておれを逮捕したのか」
「インテリのエリートに何がわかるのか」
しかし、安保が自らの過去を語るうちに、檜山の態度は変わり始めた。
安保は秋田県の農家の生まれで、木こりや炭焼きをやった後に上京し、苦学して司法試験に合格した人だった。檜山は次第に心を開き、ついには田中元総理への「5億円」の贈賄について容疑を認めた。
檜山会長の供述により、1972年8月に檜山が東京・目白の田中邸を訪問し、航空機トライスター売り込みの請託をした際に、田中元総理が「よっしゃ、よっしゃ」と了承していたことも明らかになった。5億円のワイロ授受の構図が浮かび上がり、捜査は大きく前進した。
「クラーク検事はほとんど泣いていた」
東京地検特捜部が田中逮捕の着手日を決定したのは、逮捕のわずか4日前だった。
情報はマスコミにも永田町にも漏れることなく、厳重に管理されていたのだ。
そして、その運命の日が、近づく。
7月23日(金)
特捜部は「Xデー」を7月27日と定め、田中逮捕に向けて水面下で具体的な準備を始める。
7月24日(土)
「検察首脳会議」において、田中元総理を外為法違反で逮捕する方針が正式に確認される。
同時に、最高裁判所はコーチャンらの「刑事免責」を保証することを決定。これにより、逮捕への障害はすべて取り払われた。
7月26日(月)
検察は法務省を通じて田中元総理逮捕の方針を、稲葉法務大臣に報告。
三木総理と共に真相究明を推し進めていた中曽根派の稲葉は「指揮権発動」による「逮捕阻止」はせず、逮捕を了承した。稲葉とほぼ同時に三木総理にも伝えられた。
7月27日(火)
「Xデー」到来。
午前6時半、東京・目白。松田検事と特捜部資料課長らが田中邸に向かい、田中角栄元総理大臣を東京地検に任意同行した上で、外為法違反の疑いで逮捕した。
(後に外為法と受託収賄罪で起訴)日本政治史に前例のない瞬間だった。
ロスにいた堀田検事は、吉永検事からの電話で逮捕の一報を受けた。
「これから田中を逮捕する。松田検事が田中宅に入った」
日本時間午前6時半。ロスではまだ前日の午後2時半。
堀田検事はすぐさま、捜査に協力してくれた司法省のクラーク検事に電話を入れた。
「ほんとうに田中を逮捕するのか」と尋ねるクラーク検事に、堀田検事は「ほんとうに逮捕するんだ」と告げた。
「クラーク検事はほとんど泣いていた。よくここまでやったと」(堀田)
総理大臣経験者が贈収賄で逮捕されるという前代未聞の事態は、日本中を激震させた。
運輸族の有力議員だった橋本登美三郎元運輸大臣、佐藤孝行元運輸政務次官も全日空からの金銭授受を理由に受託収賄罪で起訴されたほか、田中元総理の“刎頚の友”小佐野賢治・国際グループ創業者も偽証罪で起訴された。
ロッキード事件では被告16人、取り調べを受けた関係者は400人を超えた。
その後、田中元総理は一審、二審で「懲役4年、追徴金5億円」の実刑判決を受けるが、上告中の1993年12月に死去した。最高裁は1995年2月、共犯とされた榎本秘書の有罪判決の確定をもって、田中元総理が「5億円」を受け取った事実を認定した。
さて、田中元総理逮捕から4か月後の1976年10月4日。季節は、夏から秋へと静かに移り変わっていた。
この日、TBSニュースは、東京地検特捜部の堀田検事と東条検事が、パンアメリカン航空機で帰国したことを伝えた。
2人は田中元総理逮捕後もロスに残り、引き続きコーチャン副会長やクラッター日本支社長の追加尋問を行っていたのである。
羽田空港に降り立った堀田の表情は、固く引き締まっていた。
待ち受けていたのは、その後、16年という長期にわたるロッキード裁判だった。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
参考文献
堀田 力「壁を破って進め 私記ロッキード事件(上下)講談社、1999年
奥山俊宏「秘密解除 ロッキード事件」岩波書店、2016年
坂上 遼「ロッキード秘録 吉永祐介と四十七人の特捜検事たち」講談社、2007年
山本祐司 「特捜検察物語」(上下)講談社、1998年
NHK「未解決事件」取材班「消えた21億円を追え」朝日新聞出版、2018年
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