
「日本は私の国です」
フィリピンで暮らす95歳の田中愛子さんは日本語を忘れたことはない。
【写真で見る】ミンダナオ島に上陸した米軍部隊(所蔵:米国国立公文書館)
日本人移民の父とフィリピン人の母の間に生まれ、「何の不自由もない豊かな暮らし」をするなか、太平洋戦争の開戦が田中さんの生活全てを奪った。
「戦争はもう二度と繰り返してはいけません」
壮絶な逃避行の末、父と4歳の弟を失った。戦後81年となったいま、当時の凄惨な状況を語ってくれた。
(JNNバンコク支局 村橋佑一郎)
“日本式”で育った幼少期 今もなお残る家族の記憶
「田中愛子と申します。どうぞいらっしゃい」
流ちょうな日本語で出迎えてくれたのは、フィリピン南部ミンダナオ島のダバオに住む田中愛子さん(95)。
耳は遠くなり、視力も落ちてしまった愛子さんだが、80年以上前の戦争体験、そして家族の記憶は鮮明に残っている。
戦前の1931年、日本人の父・田中吉郎さんの三女として生まれた。熊本県出身の吉郎さんはフィリピンに移住し、先住民族のアリガンさんと結婚。8人の子どもに恵まれた。
子どもたちに日本語を教えていた吉郎さんは、厳しくも温かく育ててくれた。
田中愛子さん(95)
「家ではすべて日本式の教育でした。食事中はいただきます、ごちそうさまを言いなさいと。お父さんが子どもたちの行儀や食べ方を細かく注意して。ご飯粒ひとつでも落としたらだめだと。お正月が特に楽しみで嬉しくてね。お餅もお味噌も甘酒も…何でもお父さんが作ってくれた」
戦前、アメリカの統治下にあったフィリピンには多くの日本人が移住。現地の女性と結婚し、家庭をもつ日本人男性も多かった。
特にダバオは、沖縄や九州などから渡った2万人超の日本人が暮らしていたとされ、「リトル・トーキョー」と呼ばれる東南アジア最大の日本人移民社会がつくられていた。
「アバカ」と呼ばれるマニラ麻の栽培や輸出で街は好景気に湧き、日本人が営む商店や日本人学校なども各地にあった。
吉郎さんは自身のアバカ農園を経営し、日本から美味しい食べ物を輸入してくれた。愛子さんも日本人学校に通い、「何の不自由もない豊かな暮らしでした」と懐かしむ。
だが、穏やかな生活は「戦争ですべて崩れてしまった」。
引き裂かれた家族「私たちも一緒に殺してくれ」
1941年12月、太平洋戦争が勃発。
吉郎さんはフィリピンの軍人によってトラックに乗せられ、収容所に連行された。
「お父さん!」愛子さんは泣きながら父のあとを追いかけた。母は父と「一緒に行く」と言ったが、フィリピン兵は「日本人だけだ」と突き放す。
田中愛子さん(95)
「母は『お父さんと一緒に行けないなら、お父さんが殺されるなら、私たちも一緒に殺してくれ』と訴えました。そのときの母の姿は今でも覚えています」
吉郎さんはほかの日本人とともにダバオの学校施設に収容された。
その後、旧日本軍がミンダナオ島へ侵攻し、父は解放されたが、以前のような生活に戻ることはできなかった。
愛子さんの自宅は、日本軍の一時的な活動拠点のひとつになり、日本兵たちが出入りするようになったという。母は兵士たちの食事や風呂の世話をした。
吉郎さんは日本軍への協力に駆り出され、小学校を卒業したばかりの愛子さんも動員された。
愛子さんは日本軍の電話係を担当。銃弾や爆弾の注文を電話で聞き取り、紙に書いて将校に届けるのが日課だった。
田中愛子さん(95)
「夜になると大きな音がして、空を見ると米軍の飛行機が回っている。合図があると寝ていてもすぐに起きて防空壕に隠れていました」
戦局が悪化していた1945年4月、米軍がミンダナオ島に上陸したとの報せが入る。
愛子さんは父と離れ、母やきょうだいとともに山への避難を始めた。
ほかの日本人の家族らと一緒に行動していた愛子さんは、昼間は米軍に見つからないよう森に隠れ、夜に煙を焚いてご飯をつくる生活だった。
日に日に食料はなくなり、飢えと闘いながらジャングルの中をひたすら歩き続けた。
“狂ってしまった”母は「弟を殺しました」
「機関銃に追われ、大砲に追われ、爆弾にも追われて。どこに行ってもビクビクしました。怖い、怖いって」
「あるお母さんが亡くなって小さな子どもだけが残されて、かわいそうだという気持ちはあるけれど、私たちも食べるものがないし助けることもできなかった」
地獄のような日々だった。
ある日、川辺で洗濯をしていた人たちが米軍機による機銃掃射を受けた。その光景を間近で目にした母は正気を失った。
数日後、疲れて眠っていた愛子さんは4歳の弟の泣き声で目を覚ます。「お姉さん、痛い、痛い」と泣き叫ぶ弟。のどに切り傷があった。
そばにいた母はカミソリを持っていた。愛子さんはとっさに周囲の大人に助けを求めたが、間に合わなかった。
田中愛子さん(95)
「頭が狂ってしまった母は弟を殺しました。『天皇陛下、万歳』と叫んでいました。子どもを殺して自分も死のうとしたんでしょうね。あまりの苦しさで…」
「早く行け…」突然の終戦と父の最期の言葉
1945年8月、山へ家族を探しにきていた父と再会を果たすことができた。
田中愛子さん(95)
「お母さんは自殺するといってけがもしていたし、弟ももういなくなったから、お父さんはどうするのかなとビクビクしていたの。でもお父さんは責めなかった。『とにかくお前が生きていてよかったと。お前が死んでいたら、あとの子どもたちの面倒は誰が見るのか』とお母さんに声をかけたのね」
だが、吉郎さんはすでに衰弱しきっていた。
やがて、家族のもとに1枚のビラが届く。
“戦争は終わりました。避難先から出てきてください”
寝たきりになっていた吉郎さんは、愛子さんたちに「早く行け、行け」と何度も声を絞り出した。戦争は終わっても、山にはフィリピンの抗日ゲリラなどがたくさん潜んでいた。
せめて子どもたちだけでも助かってほしい。そう願った父は、愛子さんたちと別れた後、まもなく息を引き取った。56歳だった。
田中愛子さん(95)
「子どもたちが食べ物を食べて元気になるようにと。亡くなってしまったお父さんの気持ち…親の心を思い出すとね」
愛子さんは言葉に詰まり、涙を拭った。
「戦争はもう二度と繰り返してはいけません」
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